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金沢工業大学 工学の曙文庫

【第3回】
ヘルツ『非常に速い電気的振動について』
真面目で実直な科学者による
「電磁波の発見」という功績の大きさ
【第3回】
ヘルツ『非常に速い電気的振動について』
真面目で実直な科学者による
「電磁波の発見」という功績の大きさ
2020.10.5

1864年、イギリスの理論物理学者J.C.マクスウェルが電磁波の存在を予言した。その24 年後の1888 年に電磁波の存在を実証したのが、ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツだ。1887年発行のドイツの物理学会誌に掲載されたヘルツの論文『非常に速い電気的振動について』に、電磁波の存在を発見するまでの経緯が記されている。金沢工業大学の「工学の曙文庫」に所蔵されているその原著論文を使い、「原著から本質を学ぶ科学技術講座」において「ハインリヒ・ヘルツは何を考え、何を見たのか」と題した講座で講義を行ったのが、電気電子工学科の野口啓介教授だ。アンテナの研究者として、ヘルツへの思い入れが非常に強いという野口教授に、ヘルツの功績の大きさや人物像について語ってもらった。
PERSON
金沢工業大学
電気電子工学科 教授

野口 啓介 (のぐち けいすけ) 博士(工学)
金沢工業大学電子工学科卒。東北大学大学院前期博士課程(電気及び通信工学)修了。(株)日立製作所入社、中央研究所に勤務。1995年金沢工業大学助手。講師、准教授を経て、2009年教授。2009年UCLA客員研究員。専門はアンテナ工学。
PERSON
野口 啓介
(のぐち けいすけ) 博士(工学)
金沢工業大学
電気電子工学科 教授

金沢工業大学電子工学科卒。東北大学大学院前期博士課程(電気及び通信工学)修了。(株)日立製作所入社、中央研究所に勤務。1995年金沢工業大学助手。講師、准教授を経て、2009年教授。2009年UCLA客員研究員。専門はアンテナ工学。
電磁波の存在発見の背景にある
当時の時代背景と恩師の存在
 講座のテーマにヘルツを選んだのは、アンテナの研究者として、電磁波やアンテナという分野を切り拓いた先駆者であるヘルツに特別な思いを抱いていたからだ。ただ、私はこれまでヘルツの論文を読んだことはなかった。学生時代に電磁気学を学ぶ過程でヘルツについて学んではいたが、その頃は「周波数の単位になったドイツの科学者」という程度の印象しかなかった。ヘルツがどのように電磁波を発見したのかというところには、当時の私はまったく思い至らなかった。

 機会を得て、彼の論文に初めて目を通すことになったのだが、物理学者として極めて冷静であり、真摯な姿勢で研究をしていたことがよく理解できた。今回の講座で取り上げたのは、電磁波発見の経緯を記述した論文であり、その詳細については初めて知ることばかりであった。改めてヘルツの電磁波発見に至る道程を詳しく知ることとなり、非常に興味深かった。私自身にとっても論文との出合いが大変意義深い経験となったが、ヘルツが実験によって電磁波の存在を証明した事実にちなんで、私もヘルツの実験を再現することにした。金沢工業大学には電波無響室があるので、その設備を活用して実験を再現することができたのだ。ヘルツは火花によって電磁波を可視化したが、現在はLEDを使えばよりわかりやすく目に見える形で再現できる。実験を再現したことで、講座の受講者の皆様にも大変興味を持っていただけた。
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電波無響室に再現された無線(ワイヤレス)通信システム。論文にある「空間での電波伝搬について」の実験を再現した。
電源と火花放電装置(左奥)からの電波と、手前の机の左にある標準ダイポールアンテナ(ヘルツダイポール)からの電波を、LED付ダイポールアンテナを使って受信・観測した。右にある導体板は電波の反射および回折用に用いた
 では、そんなヘルツの業績について触れていきたい。ヘルツは1857年にドイツのハンブルクで生まれた。父親は弁護士で比較的裕福な家庭だったようだ。ベルリン大学に進んで博士号を取得し、その後キール大学の講師を経て、1885年にカールスルーエ工科大学教授となり、そこで電磁波を発見したのである。

 ヘルツが電磁波を発見する以前に、イギリスの理論物理学者であるマクスウェルが1864年に電磁波の存在を予言していた。いわゆる「マクスウェルの方程式」によって理論的にその存在を示したのだが、これは非常に難解なもので、研究者が見ても理解しにくい高度な数学を使って展開していた。

 ヘルツは、マクスウェルが予言した電磁波の存在を実験によって実証することをテーマとした。そのために、接地されない端子群からなる「ヘルツアンテナ」受信装置を考案し、また、極超短波送信用のダイポールアンテナも開発している。ヘルツが行った実験を一言で言い表すなら、「目に見えない電磁波を目に見える形に変えた」ということだ。

 実験においてヘルツは、誘導コイルとアンテナを組み合わせた発信装置に非常に大きな電力を与え、強力な電磁波を発生させ、受信アンテナで生じた火花を自分の眼で観測したのである。当時は、高周波で火花放電を発生させることは簡単ではなかったが、しばらく前に発明されていたブンゼン電池を数十個使用して大電力を発生させ、さらに誘導コイルを使った点がポイントになった。誘導コイルは当時としては新しい技術であり、ブンゼン電池が使用できたこととともに、環境的な要因にもヘルツは恵まれていたと言える。これが1887年のことで、その翌年に学術誌『Annalen derPhysik(アナーレン・デア・フィズィーク)』に発表した。マクスウェルの予言以来、20年以上誰も証明できなかった電磁波の存在を、ヘルツが明らかにしたのである。
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「工学の曙文庫」に所蔵されているヘルツの原著論文『非常に速い電気的振動について』
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『非常に速い電気的振動について』に記されている無線(ワイヤレス)通信システムの図
 なぜ、ヘルツは電磁波の存在を実証できたのか。まずは、ヘルツの恩師であるドイツの物理学・生物学者、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの存在がある。ベルリン大学時代にヘルツは、ヘルムホルツの助手を務めていたが、その恩師から電磁波の実証という課題を与えられたことがそもそもの発端だ。正しくは、「変異電流を証明せよ」という課題だったのだが、意味合いは同じである。この恩師からの課題に対して、ヘルツは真摯に取り組み、成果を上げたのだ。ただし、大学時代には「この課題に対する結果を得るには数年以上を要する」と考えてすぐには取り掛からず、10年ほど温めていた形跡がある。取り組むまでに時間こそ要したものの、その間に新しい技術である火花放電を活用できた点を含めて、時代がヘルツの実験を後押ししたことも事実である。
論文や伝記からうかがい知れる
尊敬すべきヘルツの人柄と功績
 ヘルツによる電磁波の発見は、当時としても一大トピックスであり、世界的にも大変な注目を集めた。発表後にはイギリスに招へいされて講演を行ったほか、世界各地に招かれて非常に多忙な日々を過ごしていたようだ。現代の感覚にたとえれば、ノーベル賞の受賞者が一躍時の人となってメディアに引っ張りだこになるような状況だった。世間から大変な賞賛を浴びたことは疑いないのだが、ヘルツ自身はいたって冷静であった。当時のインタビューで、この発見が人類にどう役立つのかと問われて「たぶん、何の役にも立たない」と答えたと伝えられている。

 実際にはヘルツ以降に無線通信が花開いていったので、本当は役に立ったのだが、ヘルツ自身には電磁波が無線通信に役立つという発想はなかったようだ。ただ、ヘルツがそう考えたのは、大きな電力を使わないと電磁波が発生しにくいことや、電磁波の受信装置が当時存在しなかったことなどから、社会的な有用性があまりないという見方をしたのだろう。

 1880年代という時代は、産業革命から間もない頃である。科学技術が発展し、産業への応用に関心が世界的に高まっていた時代だ。そんな背景がヘルツの研究のモチベーションになっていたことも事実だろうと私は見ている。イギリスを筆頭に、当時のヨーロッパには、科学技術を重んじる思想が根強かったこともあり、科学への関心が高く、優れた研究者も多く誕生したことも事実だからだ。私の推測としては、ヘルツが電磁波の実用性に否定的とも思えるコメントをした裏には、電磁波を発見したことで、このテーマには一区切りをつけ、次のテーマを見つけて新たな研究にまい進しようとしていたのではないかとも思っている。実際にその後のヘルツは力学に力を入れて、『力学原理』という著作も書いているからだ。
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 ところで、ヘルツはその功績の割には、人物像などが一般にはあまり知られていない。彼の伝記を2冊ほど読んでいるが、彼が極めて実直な人柄であったことが、その伝記からうかがい知れる。生真面目な努力家で、派手なことが嫌いな人だったようだ。1カ月に2、3回のペースで両親に手紙を送っているし、日記もずっとつけていたのだが、そんな一面も真面目な性格を示している。兄弟たちにも頻繁に手紙を送って近況を知らせる筆まめなタイプで、さらには家族思いの人柄であったようだ。日常生活では、散歩が好きで歩きながら思考を巡らせることを常としていた。ただ、楽しみは散歩くらいで、原則としては頭の中は研究のことばかりという、根っからの科学者だったのではないだろうか。私自身、このようなヘルツの真面目で実直な人柄に魅力を感じるし、研究に取り組む真摯な姿勢は見習いたいと思っている。

 特に私がヘルツを尊敬するのは、実験によって電磁波の存在を追究し、検証したことだ。彼の論文を読んでも、実験事実を積み重ねて論証していくという姿勢が記述から読み取れる。さらにヘルツは、マクスウェルの方程式を理論的にも検証している。前述したように、マクスウェルの方程式は難解でわかりにくいものだったが、それをわかりやすい形に整理したのもヘルツであり、それもヘルツの功績に数えられる。当時はまだノーベル賞がなかったが、1890年にはイギリス王立協会よりランフォード・メダルを与えられている。これはノーベル賞にも匹敵する大変権威ある賞である。

 私自身がアンテナの研究者であることで、ヘルツへの思い入れは強い。彼は、当時「ヘルツダイポール」や「ヘルツアンテナ」と呼ばれたアンテナを自身で考案しており、その名称は現代でも使われているし、私も研究で標準ダイポールアンテナとして使用している。ヘルツが研究で考案したアンテナは最もシンプルな実用的アンテナで、アンテナの原型と呼べるものだ。その応用技術として、現代のスマートフォンや陸上移動通信システムの電磁波の出入り口となるアンテナが開発されているのである。
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金沢工業大学の電波無響室にて
 ヘルツが電磁波を発見するには、電磁波を発生させる装置が重要な意味を持っていた。その点で、アンテナを発明したことが大きな要因となったのだが、無線通信システムの礎を築いた人はヘルツであると言っても過言ではないだろう。ただ、あくまで"無線通信の父”とされるのは、無線通信装置を開発したイタリアの発明家グリエルモ・マルコーニであり、その功績もマルコーニのものであるとされている。それでも、ヘルツが電磁波の存在を証明したからこそ、マルコーニの功績につながったのだと言える。

 ちなみに、電磁波においては、まずマクスウェルの理論が先行して、実験装置をつくったヘルツがそれを証明するという流れになっていた。理論が先行するのは物理学の世界ではよくあることだと思うが、工学の分野とは様子が異なると思う。マクスウェルは、イギリスの物理学者マイケル・ファラデーの電磁場理論をもとに、電磁波の存在を理論的に予測したのだが、物理数学が得意だったマクスウェルだからこそなしえたと言える。工学の分野ではまず実験ありきという現代とは少し事情が異なり、理論的な考察をしっかり行うことができた時代だったのだと思う。マクスウェルも天才科学者の一人に数えられるべきだが、彼にしてもアンドレ=マリ・アンペールやアイザック・ニュートンといった偉大な科学者たちに啓発されて、それまでにあった理論を深く考察し、方程式にまとめ上げることができたのだ。
ヘルツの功績なくして
無線通信の誕生・活用はなかった
 ヘルツは、1894年に36歳という若さでこの世を去った。死因は敗血症だったが、一説には電磁波を発見する過程で放射能を浴びたことで、免疫力が低下したのではないかとも言われている。研究が原因になったかどうかはわからないが、研究者として十分な力量があり、意欲的だっただけに、やはりヘルツが若くしてこの世を去ってしまったことは残念に思う。

 現在、我々が使っているスマートフォンをはじめ、近年に無線通信が花開いたのは、ヘルツのおかげだと言ってもいいはずだ。電磁波の発見なくしては、無線通信は生まれなかったし、電磁波によって地球ならびに宇宙の多くの謎も解明されてきた。工学の分野にとどまらず、天文学、理学といった様々な分野で電磁波が活用されている。おそらく、本学の卒業生たちの多くが、何らかの形で電磁波に関連する仕事に従事しているのではないだろうか。無線通信や電磁波について知れば知るほど、ヘルツの業績の大きさに気がつくはずだ。そんな視点からも、一度ヘルツについてひも解いてもらえれば、私としてもうれしい限りである。
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ヘルツの原著と野口教授

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