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情報科学化する生物学において
実験×情報解析に秀でた人材育成を
情報科学化する生物学において
実験×情報解析に秀でた人材育成を
2020.10.5

金沢工業大学ゲノム生物工学研究所所長の町田雅之教授は、前職である産業技術総合研究所(産総研)時代から、モデル生物の「酵母菌」や「麹菌」などの研究に携わってきた。なかでも酒、味噌、醤油といった日本の伝統的発酵食品の製造で広く使われてきた麹菌は、日本の産業にとって欠かすことのできない“国菌”とも呼ぶべき産業微生物であり、長年にわたって自身の研究対象にしてきたという。
PERSON
金沢工業大学
ゲノム生物工学研究所
所長、教授

町田 雅之 (まちだ まさゆき) 農学博士
東京大学農学部農芸化学科卒。同大学大学院農学系研究科博士課程修了(酵素学)。通商産業省工業技術院化学技術研究所、(独)産業技術総合研究所イノベーション推進室総括企画主幹、(国研)産業技術総合研究所生物プロセス研究部門総括研究主幹を経て、2018年金沢工業大学教授。専門は糸状菌のゲノム科学、二次代謝遺伝子の予測・同定・発現制御。
PERSON
町田 雅之
(まちだ まさゆき) 農学博士
金沢工業大学
ゲノム生物工学研究所
所長、教授

東京大学農学部農芸化学科卒。同大学大学院農学系研究科博士課程修了(酵素学)。通商産業省工業技術院化学技術研究所、(独)産業技術総合研究所イノベーション推進室総括企画主幹、(国研)産業技術総合研究所生物プロセス研究部門総括研究主幹を経て、2018年金沢工業大学教授。専門は糸状菌のゲノム科学、二次代謝遺伝子の予測・同定・発現制御。
古くから広く使われてきた
麹菌のゲノム解析に成功
 麹菌は糸状菌というカビの一種だが、糸状菌のなかでもタンパク質の分泌生産能力が高く、近年はバイオテクノロジー産業などでも広く用いられており、生活に密着した分野での利用も可能だ。

「麹菌を産業や学術面でさらに活用していくためにはゲノム情報の利用が有効ということで、1996年に当時所属していた工業技術院生命工学工業研究所(現・産総研)で、麹菌のEST解析(発現している遺伝子の解析)を始めました。この研究は1998年には産官学連携による大規模なプロジェクトになり、麹菌の全遺伝子の約1/3の部分配列の解析を完了しました。

 そして2001年にこのプロジェクトに携わった研究者を中心に、公的研究機関、大学、企業で構成される『麹菌ゲノム解析コンソーシアム』が組織され、独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)との共同研究によって、3年がかりで麹菌の設計図である全ゲノム塩基配列の解析に世界で初めて成功しました」
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「ゲノム解析」とは、生物のゲノムが持つ遺伝情報を総合的に解析することを指す。麹菌のゲノムを構成するDNA分子の塩基配列(G・A・T・Cの並び)に基づいて、遺伝子の予測や近縁種のカビとのゲノム構造の比較などを行うこの研究によって、麹菌の持つ有用性やポテンシャルの理由が解明されつつある。

 麹菌の安全性は欧米でも広く認められていたため、研究者と産業界との連携が良好な欧米諸国の研究者も、麹菌ゲノム解析に興味を持っていた。そのような状況の中で、古くから麹菌を使ってきた日本で解析に成功したことに大きな意味があると町田教授は話す。

「世界で様々なゲノム解析が進むなか、日本では何をやるべきかという危機感が強かったのと、国菌でもある麹菌の解析は何とかして日本国内で行いたいという社会的ファクターも大きかったですね。日本で解析できたからこそ、さらなる麹菌の広範な利用や新しい産業創出をめざして、様々な研究がさらに積極的に進められるようになったと思います」
ゲノム解析が進化する中で
改めて感じる”基礎力”の重要性
 町田教授はその後も麹菌のゲノム塩基配列を利用した研究を続け、感染症や穀物汚染の原因となる近縁種との比較ゲノム解析によって、麹菌に特徴的な性質の解明を進めてきた。

「麹菌と“Twins(双子)”と呼ばれるアスペルギルス・フラバス(Aspergillus flavus)というカビは、ゲノム解析を行うまでは塩基配列が麹菌とほぼ100%同じと考えられていました。しかし、片方は食品に使われるのに、もう片方はカビ毒を発生してピーナッツやトウモロコシの穀物汚染を引き起こし、経済的にも大きな影響を及ぼします。塩基配列がすごく似ているのになぜ麹菌は安全なのかという理由の一端を、ゲノムを読み取ったことによって科学レベルで明らかにすることができました」

 新たに19種のゲノム解析と23種のゲノム塩基配列の比較を行い、さらに糖質分解や二次代謝物に関する解析も行うことで、種間の高い多様性を明らかにした町田教授らの論文は、オンライン限定の学際的ジャーナル『Nature Communications』(2020年2月27日号)に掲載され、注目を集めている。
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麹菌などの有益な種とカビ毒を生産する有害な種などの比較ゲノム解析の結果。麹菌のゲノム(灰色のバー部分)に対して、様々な糸状菌のゲノム配列がどの程度一致しているかが示されている。
A comparative genomics study of 23 Aspergillus species from section Flavi
Nature Communications volume 11, Article number: 1106 (2020)よりSupplementary Figure6.
The use of the material in the publication is licensed under the CC BY 4.0 from www.nature.com
 こうした大規模で多様なゲノム情報の解析を可能にしたのが、遺伝子の塩基配列を高速で読み取る「次世代型シークエンサー(NGS、Next Generation Sequencer)」の開発だ。シークエンサーとは1980年代に開発されたDNAの塩基配列を解析するための装置だが、2005年にこのNGSが開発されたことで状況は一変。2003年に成功したヒトのゲノム解析では、塩基配列の解読に13年、コストは30億ドルを費やしたが、現在ではそれが数日、1,000ドルほどで可能になっている。

「NGSの登場は衝撃的でした。1990年代の初めにはヒトのゲノム解析なんて本当に終わるのかと研究者も思っていましたから、驚くべき変化だと思います。こうしてゲノム解析の流れができたこととNGSが進化したことで、いまや研究者たちはみんな、地球上のすべての生物のゲノムを読もうと思っているのではないでしょうか」

 一方、大規模なゲノム情報が短時間・低コストで得られるようになったため、その情報をいかに効果的に活用できるかによって、研究開発の競争力は大きく左右されるようになった。つまり、生物解析と情報解析の密接な連携が欠かせないものとなり、「情報が生物学のカギを握る」といわれる状況が出現したのである。

「ゲノム解析が大きく進んだことで、生物学の情報科学化も進みました。それまでは“実験の生物学”だったのが、ゲノム解析が始まったあたりから配列情報という大きな情報を使えるようになったため、それらをどう組み合わせればよいのかを考える情報解析の重要性が高まっています。私はいわゆる“ウェット(生物実験)とドライ(情報解析)の融合技術”と呼ばれる研究を行ってきましたが、いつも試行錯誤の連続で、そこにはいまも解決できていない壁があると感じています」

 ウェットとドライの融合は1990年代から生物学にかかわる研究者が抱えてきた課題だ。生物由来の情報には解析内容によっては最新の計算機を使っても処理しきれないほどの膨大な量のデータがあり、実験誤差も大きく、新しい種類の情報の追加やデータフォーマットの変更が頻繁に行われるといった理由で、効率的な情報解析が難しい。
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「まったく同じ条件で実験をしても、その時々で結果はちょっとずつブレるので、それが当然のように情報にも反映されてきます。分析科学をやっている人が生物実験の現場にくると、誤差に対する考え方にも雲泥の差があるため、『これで本当に実験が成立するのか?』と驚かれることもあるくらいです」

 限られたデータを全然違う分野同士が協力し合って使いこなすことは、決して簡単なことではない。しかし、解決策がないわけではないと町田教授は言う。

「生物のいい加減さというか柔軟性をきちんと理解し、情報というものの特性についてもきちんと理解する。つまり、“全体”をきちんと理解できればいいのですが、人間のキャパシティには限界がありますから、すべてをきちんと理解することなど不可能です。そこで重要になるのが、知識のベースの部分を支える、たとえば物理、化学、数学といった“基礎力”です。

 実は私自身、生物学よりもエレクトロニクスなどの工学系のほうが好きで、学生の頃はマイコンキットを自作して、CPUの仕組みやメモリとインターフェースのやりとりなどを覚えました。おかげでコンピュータは何が得意で何が苦手なのかということを自分なりに理解できたので、実際にプログラムを書くときに、どうすればパソコンで処理できるかを考えながら書くことができます。これも私が生物学を研究するうえでの、一つの基礎力になっています」

 どんなに最新の情報や複雑な知識を知っていても、基礎力がないとその情報や知識はちょっと前提条件が変わっただけで使えなくなってしまうこともある。しかし、基礎力があればいかなる状況にも対応できるということなのだ。
豊富なゲノム解析の情報を
いかに活用するかが今後のカギ
 現在、町田教授は金沢工業大学ゲノム生物工学研究所の所長を務めるが、ここでの研究におけるウェットとドライの融合については、どのように考えているのだろう。

「情報と実験をうまく融合させることは難しいし、課題が多いのも事実です。しかし、ゲノム研にはドライの分野を中心にやっている先生もいらっしゃるので、うまく体制をつくりながらウェットとドライの融合で何ができるのか考えていきたいと思います。そのためにはまず、いま巷にどんな課題があって、それをどう処理するかを考えて、経験値を上げていくしか手はありません。それを続けていくことで、ある種の一般則が見つかるかもしれないというおぼろげな期待はあるので、それをゲノム研でしっかり見極めていきたいですね」
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 ゲノム生物工学研究所で研究を進めるかたわら、町田教授は研究で得た知見を社会実装につなげていく手段として、2018年10月にゲノム解析の情報についてコンサルティングなどを請け負う会社を個人で立ち上げた。

「NGSのコストが安くなったことで、ゲノムサイズが小さい微生物などは10万円程度でゲノムがすべて読めるようになりました。ただ、これらの情報は一部だけ使われて、残りのデータは十分に利用されずに眠っているというのが実情です。しかし、こうしたデータを活用していくことで何かにつなげていけるのではないかと考えています。長い時間をかけて一つのことを深掘りする共同研究もおもしろいのですが、経験値を高めていくためにはいろいろな人が持っている様々なデータを見ることも大切です。データの詳細は口外できませんが、こうしたデータに触れることで大学での講義に活かせることも見つかるのかなと感じています」

 生物学では情報解析だけで結論を確定させることはできない。“たぶんこうであろう” と推定し、その推定に基づいて実験を行い、検証する必要があるのは言うまでもない。しかし、生物学の研究において情報化が進むいま、産業界も含めたバイオロジーの主流はゲノムなどの情報をいかに実験・研究に使いこなすかであり、これをどれだけ深いレベルでうまくやれるかによって、研究に関する競争力も決まってくる。

「インフォマティクス(情報学)とバイオロジー(生物学)が融合したバイオインフォマティクス(生命情報科学)領域の研究は、医療や創薬をはじめ農業や製造業の分野でも期待されています。生物実験と情報解析の両方を行える人材の育成に、私も微力ながら貢献していきたいと思います」
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