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【第4回】ファラデー『電気の実験的研究』
教育環境に恵まれなかった化学者の
並々ならぬ努力の賜物
【第4回】ファラデー『電気の実験的研究』
教育環境に恵まれなかった化学者の
並々ならぬ努力の賜物
2021.12.17

イギリスの化学者マイケル・ファラデーは、“ファラデーの法則”と称され、後年の人類の科学や生活の発展に大きく寄与することになった「電磁誘導の法則」を発見するなど、電磁気学や電気化学において幾多の功績を残した。その功績が多く収められているのが、著書『電気の実験的研究』第1巻~第3巻だ。その原著論文を使い、「原著から本質を学ぶ科学技術講座」において「ファラデーは何を考え、何を語ったのか」と題した講座で講義を行った電気電子工学科の中田修平教授に、ファラデーの功績や人物像について語ってもらった。
PERSON
金沢工業大学
電気電子工学科 教授

中田 修平 (なかた しゅうへい) 博士(工学)
東京大学工学部卒。同大学大学院工学研究科博士課程電気工学専攻修了。三菱電機(株)入社。中央研究所、先端技術総合研究所に勤務。加速器のパルス電磁石及び加速空洞の開発、電磁界解析技術を用いたブラウン管の電子銃及び偏向ヨークの開発、SiC を用いたパワー半導体の開発に従事。FED プロジェクトグループサブプロジェクトマネージャー、SiC デバイス開発センター副センター長を経て2017 年本学教授就任。専門は電磁界解析と電子ビーム軌道解析、加速器技術、表示装置、パワー半導体とその応用。
PERSON
中田 修平
(なかた しゅうへい) 博士(工学)
金沢工業大学
電気電子工学科 教授

東京大学工学部卒。同大学大学院工学研究科博士課程電気工学専攻修了。三菱電機(株)入社。中央研究所、先端技術総合研究所に勤務。加速器のパルス電磁石及び加速空洞の開発、電磁界解析技術を用いたブラウン管の電子銃及び偏向ヨークの開発、SiC を用いたパワー半導体の開発に従事。FED プロジェクトグループサブプロジェクトマネージャー、SiC デバイス開発センター副センター長を経て2017 年本学教授就任。専門は電磁界解析と電子ビーム軌道解析、加速器技術、表示装置、パワー半導体とその応用。
原著からうかがえる功績の数々と
感服すべきバイタリティー
 今回、ファラデーの原著を選択したのは、学科主任の山口敦史教授に勧められたからだった。私はファラデーに初めて接したのは、高校時代の物理の授業だったが、おそらくそういう人は多いのではないだろうか。大学は電気工学科に進んだが、当時は、特にファラデーについて学ぶことはなかった。ただ、父が電力会社に勤務していたこともあり、電磁気は好きな分野だったことは事実だ。父もファラデーを尊敬しており、ファラデーの逸話などを私に話して聞かせてくれたこともある。

 後に企業に就職して最初に担当した仕事が、加速機の部品設計だった。その時に電磁界解析が必須となったが、当時はまだ電磁界解析のプログラムが少なく、自分でつくっていた。そうなると、当然ファラデーの法則と正面から向き合う必要が生じ、改めてファラデーを深く学ぶことになった。
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 ただ、それまでファラデーの電磁誘導の法則こそ知ってはいても、決して深い知識を持っていなかったことも確かだ。今回の講座を担当することになり、原著を読んでみて彼の業績を再認識させられた。ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物の研究といった、化学分野においてもファラデーの功績が極めて大きいことにも改めて気づかされた。静電誘導(帯電した物体を電気伝導体に接近させることで、帯電した物体に近い側に、帯電した物体とは逆の極性の電荷が引き寄せられる現象)をはじめ、光に関する造詣も深い。非常に広範囲にわたって功績を残していることを再認識した。「ファラデーのモーター」とも呼ばれている、電磁回転装置の発明でも知られているが、これは世界初の電気力で回転する装置をつくったという、極めて画期的な発明だと言える。これが1821年のことだった。

 さらに、ファラデーの功績として挙げられるのは、生涯にわたって数多くの実験を行ってきたことだ。それも尋常な数ではない。『ファラデーダイアリー』という日記が残されているのだが、そこには詳細な実験内容がイラストとともに記述されている。電磁誘導の法則が発見された頃の記録は特に顕著なのだが、ファラデーが桁違いの実験を行い、一つの結論を導き出すまでの過程がそこに記されている。そのバイタリティーにも感服せざるを得ない。

 当時は、電磁誘導の法則を測定する器具自体が存在しなかった。何かしらの器具があったにせよ、感度は極めて低いものだ。そこでファラデーは、変電機のような器具を自ら製作して、より詳細な測定を行っている。電磁誘導の法則を発見するにあたっては、もちろん1回目に成功しているわけではない。1822年頃から延々と実験を行って、1832年までそれが続いた。じつに10年の歳月を費やしているのだ。その間には、磁石の構造を変更してみたり、磁石とコイルの距離を変えてみたりと、何度も工夫をしながら繰り返し挑戦を続けていたことがわかる。ダイアリーはイラスト付きなので理解しやすいし、論文などにも寸法やコイルの長さや太さの数値が何フィートであるとか、後に検証できるような形で細かい数値が記録されている。そういったファラデーの緻密で克明な記録が、後世において大いに役立ったはずだ。
大きな転換点となった
科学者デービーとの出会い
 記録によればファラデーは、じつは少年時代から記憶力がよいほうではなく、製本屋で働いていた時に、店主からの言いつけを忘れてしまうことが多かったため、メモをすることを習慣づけられたという。貧しい家庭に生まれたファラデーは、小学校すらまともに通えない境遇だったが、就職先が製本屋だったことで書物に接する機会を得ることができた。しかもその製本屋は学会のトップクラスに属する学者が顧客だったため、後にロンドン哲学協会やロイヤル・フィルハーモニック協会とつながりができたのである。特に、当時のイギリスで著名な科学者であった、ハンフリー・デービーとの出会いがファラデーの人生を大きく変えた。デービーは実験中の事故で目を負傷した際に、ファラデーを秘書として雇用した。折しも王立研究所の助手の一人が解雇されたため、代替の助手を探すことを依頼されたデービーは、王立研究所の化学助手としてファラデーを抜擢したのである。これが1813年のことで、当時のイギリスの階級社会においては、ファラデーの出自をもって王立研究所で働く道が開けたことは、僥倖であったに違いない。もし、彼がデービーと出会っていなかったら、その後の科学発展の歴史は大きく変わっていたかもしれない。電磁誘導の法則を発見したファラデーが、電磁気を利用して回転する装置を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いたことは確かだ。さらに、その後に発展した電気を使ったテクノロジー全般についても、彼の業績から発展したものだと言えるからだ。
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 恵まれた環境で教育を受けられなかったファラデーだが、大いなる業績を残すことができた理由は、一言で語れるものではないだろう。それでも、彼が尋常ならざる数の実験をこなし、何度もトライできる類まれなバイタリティーを持っていたことが原動力の一つであったと言えるはずだ。18世紀頃まで、磁場と電場とはまったく別なものだと捉えられていた。1820年にデンマークの科学者ハンス・クリスティアン・エルステッドが電気と磁気の関係を示す現象を発見すると、同年にフランスのアンペールが「アンペールの法則」を導き出して電気と磁気の関係を明らかにし、それが電磁気学の礎となっている。電流が流れると磁場ができることがわかり、逆に磁場をつくり出せば電流も流れるのではないかという考えのもとで学者たちが盛んに研究を行っていた。ファラデーもその一人だったのだ。すでに名声を得ていたアンペール自身も磁場から電気をつくる実験を行っていた。ただ、アンペールの実験はそれなりの成果を得ていたが、ファラデーの実験とは目的がやや異なっていたこともあり、電磁誘導にたどり着くものではなかった。ちなみに、アメリカの物理学者であるジョセフ・ヘンリーがファラデーとほぼ同時期に電磁誘導を発見していたが、ファラデーのほうが先行して発表した。ただ、ヘンリーの名誉のために付け加えておくと、当時は大掛かりな実験を行うためには大学の講堂を借りる必要があり、夏休み期間の間くらいしか実験ができなかったことが、研究が遅くなった理由だと考えられている。ヘンリーは電磁石を研究する過程で自己誘導という電磁気の現象を発見しており、電磁誘導(インダクタンス)のSI単位「ヘンリー」にその名をとどめている。
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「工学の曙文庫」に所蔵されているファラデーの原著『電気の実験的研究』第1巻~第3巻
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『電気の実験的研究』第1巻に記されている磁力線の図
 教育にも尽力し、一般向けの講演も数多く行った。特に有名なのはクリスマスシーズンに少年少女への“プレゼント”として開かれた科学講座「クリスマス・レクチャー」で、1827年から1860年まで19回の講演を行った(クリスマス・レクチャーは現在もイギリスで開催されているほか、日本でも「英国科学実験講座」として1990年から開催されている。また金沢工業大学でも2007年8月に行われている)。彼の講演は非常に巧みで、聴講する者を大いに惹きつけたという。じつはそれも努力の賜物で、話し方の技術を習得するために相当学んでいたようだ。一説には収入の半分を費やして講演術を習っていたとも言われ、こんなところにもファラデーが大変な努力家であったことが裏付けられている。
視野の広さ、柔軟さ、人間味
原著から伝わるファラデーらしさ
 1824年には王立協会フェローに選ばれ、その翌年にはデービーの後を継いで英国王立実験所長にもなっているなど、後年は様々な役職も務めている。科学者としての実績に加えて、人望もあったことが伺えるが、政府の役職には何度も要請があったようだが固辞し続けた。ナイトの称号も辞退しており、王立協会会長職も2度辞退している。同時代に活躍したアメリカンのヘンリーが、スミソニアン協会の初代会長や全米科学アカデミー総裁などの要職に就いたのとは対照的だ。どちらが良いとか言えるものではないが、名誉欲を持たずに要職を固辞したこともファラデーらしいという気がする。

 ファラデーの原著に接して改めて思うことは、彼がいかに広い視野を持ち、本当に柔軟で豊かな発想力の持ち主であったということだ。様々な視点で実験を繰り返したことに対して、私も大いに見習いたいと感じ入った。原著には、彼が求めぬいて会心の結果を得られた際など、その素直な喜びようが筆跡から伝わってくるような直筆の記述もあり、ファラデーの人間味に触れられたような感覚も得ることができた。ちなみに、ファラデーは規則正しい生活を送ることを課していたようで、研究に熱中するあまり徹夜するようなことは一切しなかったという。そんな姿勢も彼の業績を支えた一因のように思えて、非常に興味深い。

 電磁誘導の法則以外にも、「電気分解に関する法則」や「真空管のファラデー暗部」、「反磁性物質」などの数々の発見のほか、「回転機」や「発電機」の発明を行ったファラデーの功績は、後世に大きな影響を与えたことは言うまでもない。「正イオン(cation)」、「負イオン(anion)」、「陰極(cathode)」、「陽極(anode)」といった、我々が使っている数々の科学用語もファラデーが命名したものが数多い。化学や哲学にも造詣が深かったファラデーは、知れば知るほど偉大であり、個性的で魅力のある人物である。あらゆる事象を様々な角度から究明し、トライしていくというその姿勢には、研究に携わる者だけでなく、一社会人として大いに見習うべきものである。
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ファラデーの原著『電気の実験的研究』第1巻と中田教授

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