【第8回】
ライプニッツ『極大と極小に関する新しい方法』
“数学界の巨匠”が簡潔に示した
微分法に対する基本的な成果【第8回】
ライプニッツ『極大と極小に関する新しい方法』
“数学界の巨匠”が簡潔に示した
微分法に対する基本的な成果
ライプニッツ『極大と極小に関する新しい方法』
“数学界の巨匠”が簡潔に示した
微分法に対する基本的な成果【第8回】
ライプニッツ『極大と極小に関する新しい方法』
“数学界の巨匠”が簡潔に示した
微分法に対する基本的な成果
2025.1.20
金沢工業大学の「工学の曙文庫」に所蔵されている稀覯書(きこうしょ)の原典初版のなかでも“最重要” とされるのが、「知とのダイアローグ」第1回で取り上げたアイザック・ニュートン、続く第2回のアルバート・アインシュタイン、そして今回取り上げるドイツ生まれの数学者、ゴットフリート・ライプニッツである。コロナ禍前に開催された「原著から本質を学ぶ科学技術講座」で「ゴットフリート・ライプニッツは何を考え、何を見たか」と題した講座の講師を務めたのが、数理・データサイエンス・AI 教育課程の山岡英孝教授だ。現代数学の出発点となる微積分法を確立したライプニッツの論文『極大と極小に関する新しい方法』をひもときながら、シンプルながら現代的な構成でわかりやすいと評される論文の中身と、それを導き出すことを可能にしたライプニッツの壮大な思考の背景について、山岡教授に語っていただいた。
金沢工業大学
数理・データサイエンス・
AI教育課程 教授
山岡 英孝 (やまおか ひでたか) 博士(情報学)
京都大学理学部理学科卒(主に物理学を修める)。同大学大学院情報学研究科博士課程(数理工学)修了。同大学大学院情報学研究科研修員、(独)理化学研究所研究員、(有)VCADソリューションズ研究員、京都大学大学院工学研究科産官学連携研究員。2006年~2011年同大学大学院工学研究科民間等共同研究員、2010~2012年近畿大学理工学部非常勤講師を兼務。2012年金沢工業大学講師。2022年より教授。専門は数理教材開発、数理の概念問題、形態構造解析、非線形連続体力学、幾何学的力学系理論、微分幾何学。
数理・データサイエンス・
AI教育課程 教授
山岡 英孝 (やまおか ひでたか) 博士(情報学)
山岡 英孝
(やまおか ひでたか) 博士(情報学)
金沢工業大学
数理・データサイエンス・
AI教育課程 教授
(やまおか ひでたか) 博士(情報学)
金沢工業大学
数理・データサイエンス・
AI教育課程 教授
京都大学理学部理学科卒(主に物理学を修める)。同大学大学院情報学研究科博士課程(数理工学)修了。同大学大学院情報学研究科研修員、(独)理化学研究所研究員、(有)VCADソリューションズ研究員、京都大学大学院工学研究科産官学連携研究員。2006年~2011年同大学大学院工学研究科民間等共同研究員、2010~2012年近畿大学理工学部非常勤講師を兼務。2012年金沢工業大学講師。2022年より教授。専門は数理教材開発、数理の概念問題、形態構造解析、非線形連続体力学、幾何学的力学系理論、微分幾何学。
わずか10ページほどの
シンプルでわかりやすい論文
シンプルでわかりやすい論文
私が「原著から本質を学ぶ科学技術講座」でライプニッツの『極大と極小に関する新しい方法』を担当することになったのは、大澤敏学長からの依頼による。本学の「工学の曙文庫」に所蔵されているライプニッツのこの原著論文は、ニュートンの原著『プリンキピア』、アインシュタインの原著『運動している物体の電気力学について』『一般相対性理論の基礎』に並ぶ“最重要な原著論文”のひとつであり、まずこの3人の論文を講座で取り上げたいので、私にライプニッツを担当してほしいというということだった。
私自身が大学で物理学を専攻し、現在は学生たちに数理系科目を教えているということもあり、この指名はとても光栄なことであり、一も二もなく担当させていただくことにした。しかし、正直なところ少しばかりの不安がないこともなかった。というのも、実は私がライプニッツの名前を知ったのは大学生の頃なのだが、そのイメージはせいぜい「微積分法を確立した人」という程度のもので、それ以上の知識や情報は持ち合わせていなかったし、その状況はそれ以降もほとんど変わっていなかったからだ。改めて原著をひもといてライプニッツの数学上における天才性について調べたとしても、果たしてその難解な内容を講座としてどこまで掘り下げることができるのか、自分でも想像がつかなかった。
私自身が大学で物理学を専攻し、現在は学生たちに数理系科目を教えているということもあり、この指名はとても光栄なことであり、一も二もなく担当させていただくことにした。しかし、正直なところ少しばかりの不安がないこともなかった。というのも、実は私がライプニッツの名前を知ったのは大学生の頃なのだが、そのイメージはせいぜい「微積分法を確立した人」という程度のもので、それ以上の知識や情報は持ち合わせていなかったし、その状況はそれ以降もほとんど変わっていなかったからだ。改めて原著をひもといてライプニッツの数学上における天才性について調べたとしても、果たしてその難解な内容を講座としてどこまで掘り下げることができるのか、自分でも想像がつかなかった。
しかし、初めてライプニッツの原著を目にして、その思いは杞憂にすぎないことがわかった。ページ数がわずか10ページほどのこの論文はすべてラテン語で書かれているため、私は原著の英訳版と参考文献を手に入れてそこに書かれている内容を精査することから始めたのだが、この論文の全体構成の流れは現在の高校の数学のテキストの流れと同じように、実にシンプルでわかりやすくまとめられていることがわかったからだ。
論文の最初の見開きは、左ページに図が描かれた扉絵があり、右ページにはその図と対応する微分係数の定義、微分係数の性質、微分係数と関数の増減といった解説が書かれている。次の見開きでは複号についての注釈、べき関数の導関数と続き、さらに次のページで微分法の計算例を示し、続けて微分法の適用例がやや長めに記載されている。そして最後に付記として、過去に問題とされていた研究も微分を使えばこのように解決するという説明がなされている。
論文の最初の見開きは、左ページに図が描かれた扉絵があり、右ページにはその図と対応する微分係数の定義、微分係数の性質、微分係数と関数の増減といった解説が書かれている。次の見開きでは複号についての注釈、べき関数の導関数と続き、さらに次のページで微分法の計算例を示し、続けて微分法の適用例がやや長めに記載されている。そして最後に付記として、過去に問題とされていた研究も微分を使えばこのように解決するという説明がなされている。
金沢工業大学「工学の曙文庫」に所蔵されているライプニッツの原著論文。論文集の中に収められている
「微分とはどういうものか?」という“定義”から始まるのは他の数学の論文と同じだが、ライプニッツは最初に新しい概念の定義を行うだけではなく、その概念の性質と概念によって導かれる基本公式についても解説を加えている。そして、これを準備すればこういう計算規則が成り立つという“計算例”や、その計算はこういう分野に応用できるといった“適用例”を解説し、最後に以前の研究との比較まで行っている。
わずか10ページほどの短い論文だが、微分法に対する基本的な成果をシンプルにまとめた“流れ”はとてもわかりやすく、高校の教科書と同様の“学びやすい順番”になっているという点が非常に興味深く感じられた。もちろん書かれている説明も非常に簡潔でありながら説得力があり、とても現代的な構成の論文だという印象を受けた。解説されている内容についての詳細は省くが、たとえラテン語がわからなくても式のところは何となく想像がつくと思う。数学の専門家でなくても、数学が好きな人であれば本講座に出てくる原著の写真を見ながら、何となく書かれていることを理解できるという“すごさ”がこの論文にはあると感じる。
わずか10ページほどの短い論文だが、微分法に対する基本的な成果をシンプルにまとめた“流れ”はとてもわかりやすく、高校の教科書と同様の“学びやすい順番”になっているという点が非常に興味深く感じられた。もちろん書かれている説明も非常に簡潔でありながら説得力があり、とても現代的な構成の論文だという印象を受けた。解説されている内容についての詳細は省くが、たとえラテン語がわからなくても式のところは何となく想像がつくと思う。数学の専門家でなくても、数学が好きな人であれば本講座に出てくる原著の写真を見ながら、何となく書かれていることを理解できるという“すごさ”がこの論文にはあると感じる。
論文発表までに7年かけ
記号化をして簡略化した微積分法
記号化をして簡略化した微積分法
私たちは大学でも微積分の続きとなる「べき級数展開」や「微分方程式」などを学ぶのだが、ライプニッツもこうした大学で学ぶようなことを研究する中から、微分と積分の関係に気づいたのである。つまり、出発点をこう設定してやれば、それ以降のことを全部説明できるという流れでものを考えることで、その後に続くものすべてを理解していったのである。そういう意味でもライプニッツの思考からはある種の“壮大さ”を感じることができるし、ライプニッツほど“最初から完成された論文を書いた数学者”はいないのではないかという思いを、私はこの論文から強く感じることができた。
事実、ライプニッツがこの論文を発表したのは1684年10月のことだが、それに先立つ1676年11月には「接線の微分計算」、1677年7月には「曲線の接線を引く一般的方法」、「接線の新しい方法、あるいは極大と極小について」と、関連する一連の話題に関する草稿をまとめている。さらに同月、ライプニッツは「差と和、接線と求積、極大と極小、曲線と立体の表面との大きさ、その他通常の算法を超越するものを扱う新しい算法の基礎」という、ここまでの研究で自分なりにわかってきたことを一気に草稿としてまとめているのだが、そこからはライプニッツのあふれんばかりの熱量を感じることができる。
そしてその熱の高まりが一旦落ち着いた7年後の1684年に、ライプニッツはついにこの簡潔にまとめた論文を発表するわけだが、私はこの7年間という時間がとても重要だったのではないかと考えている。つまり、熱量の高まりとともにあらゆるものを一挙に発表するのではなく、「どうわかりやすく発表すればいいのか?」ということを、ライプニッツは7年かけてじっくり考えていたのではないだろうか。時間をかけて内容を研ぎ澄ませていったからこそ、ここまでシンプルに要点をまとめた説得力のある論文を完成させることができたのは間違いない。
そしてその熱の高まりが一旦落ち着いた7年後の1684年に、ライプニッツはついにこの簡潔にまとめた論文を発表するわけだが、私はこの7年間という時間がとても重要だったのではないかと考えている。つまり、熱量の高まりとともにあらゆるものを一挙に発表するのではなく、「どうわかりやすく発表すればいいのか?」ということを、ライプニッツは7年かけてじっくり考えていたのではないだろうか。時間をかけて内容を研ぎ澄ませていったからこそ、ここまでシンプルに要点をまとめた説得力のある論文を完成させることができたのは間違いない。
ところで、微積分法の確立に関わったもう一人の偉大な学者が、アイザック・ニュートン(1642-1727)だということはご存じだろうか。2人はほぼ同時代に活躍しており、ライプニッツが無限小とその働きを記号に求めるという方法で微積分法を発見したのに対し、ニュートンは力学的な観点から微分法を発見したわけだが、それらは内容的にはほとんど同じものだった。2人の論文については発見の優先権論争などもあったが、それはほとんど支持者などによってなされたものであり、お互いに直接的な接点がなかったこともあり、現在はそれぞれが独自に微積分法を確立したというのが定説となっている。
では、なぜ知名度やその功績への評価がはるかに高いニュートンではなく、ライプニッツの微積分法が現在も高校の教科書で使われるほど一般的なものになったのかというと、それが「記号の活用」だった。微積分の本質を自分なりに理解していたライプニッツは、微積分の難解な理論をΣ(シグマ)や∫(インテグラル)といった記号化することで簡略化したのである。この簡略化した微積分法によって誰もが簡単に計算を行えるようになったことは、ライプニッツの功績として非常に大きい。記号の意味を理解し応用することで計算の負担が減るだけでなく、上昇率や下降率などの変化を正確に捉えることができるようになったため、ライプニッツの微積分法はその後のヨーロッパの数学者に広く採用され、様々な研究領域の発展につながっていった。
では、なぜ知名度やその功績への評価がはるかに高いニュートンではなく、ライプニッツの微積分法が現在も高校の教科書で使われるほど一般的なものになったのかというと、それが「記号の活用」だった。微積分の本質を自分なりに理解していたライプニッツは、微積分の難解な理論をΣ(シグマ)や∫(インテグラル)といった記号化することで簡略化したのである。この簡略化した微積分法によって誰もが簡単に計算を行えるようになったことは、ライプニッツの功績として非常に大きい。記号の意味を理解し応用することで計算の負担が減るだけでなく、上昇率や下降率などの変化を正確に捉えることができるようになったため、ライプニッツの微積分法はその後のヨーロッパの数学者に広く採用され、様々な研究領域の発展につながっていった。
多岐にわたる仕事を通して
学問の統一的な体系化をめざした
学問の統一的な体系化をめざした
説明が遅くなってしまったが、ここでライプニッツの人となりについて少し触れておきたい。ドイツのライプツィヒに生まれたゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)は、普遍的天才、数学界の巨匠とも評され、17 世紀の文化史における巨人とも呼ばれている。数学者としてだけでなく哲学者や法学者としても多くの仕事をしており、政治学、歴史学、神学、経済学、自然哲学など、様々な領域の学問を学び、政治家や外交官としての顔も持っていた。コンピュータもインターネットもなかった時代に、これだけ幅広い分野について学び、仕事としても関わっていった原動力こそが、あらゆる学問を統一的に体系化しようというライプニッツの試みだった。
実際にライプニッツの生涯の足跡を地図でたどってみると、ライプニッツは学者としてだけでなく外交顧問や図書館長といった要職を歴任しながら、ドイツ国内をはじめヨーロッパ各地を転々としているのだが、極めようとした学問同様その仕事の分野の幅広さ、移動している地域の広さには驚かされるばかりだ。そんなライプニッツが1700年にブランデンブルク公女ゾフィーの協力でベルリンに創設したのが、自身が初代総裁を務めた科学アカデミーだった。これはいわば研究者たちの活動の土台となるコミュニティのようなもので、ベルリンの科学アカデミーはのちに世界屈指の学術団体になっている。ライプニッツはドレスデン、ウイーン、ペテスブルクなど行く先々でアカデミーをつくろうとしたといわれるが、こうした行動ひとつとっても、あらゆる学問の統一的な体系化をめざそうとしたライプニッツの強い思いが伝わってくる。
ライプニッツは現代数学の出発点となる“いちばん基礎の部分”を考えた人だが、出発点になる発見というものは、本当に出発の時点からあるわけではなく、すでに誰かが手をつけているいろいろなことを勉強する中から見つかることもある。私はこの論文を通してライプニッツについて学び始めたばかりだが、本当の大天才でなくてもこういうきっかけをうまくつかんでいくことができれば、イノベーションは起こせるということを授業でも伝えていきたいと考えている。
ライプニッツは現代数学の出発点となる“いちばん基礎の部分”を考えた人だが、出発点になる発見というものは、本当に出発の時点からあるわけではなく、すでに誰かが手をつけているいろいろなことを勉強する中から見つかることもある。私はこの論文を通してライプニッツについて学び始めたばかりだが、本当の大天才でなくてもこういうきっかけをうまくつかんでいくことができれば、イノベーションは起こせるということを授業でも伝えていきたいと考えている。
ライプニッツの原著論文と山岡教授
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